李 鋼哲所長の回顧録(連載)⑤:我が家族の略史―満州への移民100年史―李 鋼哲所長の回顧録

中国の近現代史100年の激動の時代を、私とわが家族(農民家族)の物語を綴ることができるのではないか?

日本が韓国を併合した1910年代から 30年代の満州国時代、そして1949年に中華人民共和国が成立してからの歴史について、我が家族の生き様を通じて読者に紹介したい。

我が家族は、中国の吉林省延辺朝鮮族自治州龍井県(日本では「間島」と呼んでいて、1909年9月4日に日本と清朝との間で結ばれた『間島協約』により、同年11月2日、清の延吉県龍井村に設置された日本の領事館。1938年に閉鎖された)に暮らしていた平凡な農家であった。

ところが、平凡ではない歴史の1頁を飾るのに相応しい物語がある。

我が家族は長い間農村で農民として暮らしていた。

父親の話によると、我が祖先は全州李氏の家門であるので、李氏朝鮮(朝鮮王朝の建国者李成桂)の後裔と言われるが、本当かどうかは分かりようがない。

お爺さんの時代には、朝鮮の咸鏡北道・明川郡・サウナム面・馬前洞という村で暮らしていたと聞いている。日帝の韓国併合と植民地支配が始まると、お爺さんは家族を連れて中国と朝鮮の国境川である豆満江を渡って、満州の地であった延辺(当時は「間島」と呼ばれた)の朝陽川ムルリ溝という村に移住したのが日露戦争の後と推測される。

父親李銑奎は1911年10月20日(旧暦)に満州で生まれたという。母親姜英淑は1919年7月18日(旧暦)に同じく満州に生まれた。二人は1933年に結婚し、12人の子供が生まれ、成人まで残ったのは娘4人と息子4人、計8人であった。

両親は、満州事変(1931年 9月18日), 満州国時代(1932-45年)を経験し、1945年には光復を迎える(日本の敗戦)。中国共産党の土地政策により、農地を配分してもらい、中国籍が付与されているので、中国人として生きてきた。

そして国共内戦と土地改革(1945-49年)の時代を経て, 中華人民共和国の成立 (1949年10月1日)を迎えるが、翌年には朝鮮戦争が勃発し(1950年 6月25日-53年7月)、父親の弟(叔父)と母親の兄は朝鮮戦争に参戦したが、休戦協定後に父親の弟(叔父)は帰国し、母親の弟は朝鮮に残り、戦後の復旧建設に参加し、その後も朝鮮で結婚して暮らしていた。

そして、1956年の反右派闘争を経て、大躍進と人民公社(1958年~61年)時期の大飢饉を経験し、文化大革命(1968年~76年)期の大災難の影響をもろに受けたていた。

1978年より中国の改革・開放政策を迎えて、安定的な生活を送れるようになっていた。1989年には天安門事件の影響で、北京で暮らしていた私は日本への渡航を決意し、1991年5月に来日し今に至っている。

我が家族は、地元の延辺では数少ない大家族である。祖父と祖母は1女5男を、そして外祖父と外祖母は6女6男を育てた。その17人の家族から生まれた私の従姉妹は総計100名を超える。

我が両親は4女4男を生み育てた後、1995年に両親とも相次ぎ他界した。

1994年3月に地元の龍井市(りゅうせい、中国吉林省東部、朝鮮族の集住地域)の迎賓館ホテルで両親の結婚60周年(ダイヤモンド婚)をお祝い、大規模な祝賀会を開催した。この祝賀会には兄弟8人の家族、そして、従兄弟・従姉妹らを含め8親等の親戚まで親族が合計約150名集い、それに地元の政府関係者や地元の兄弟の知人たちを加えると、約200名の賓客が参加し、盛大にパーティーであった。

1994年3月、両親のダイヤモンド婚挙式(父親は83歳、母親は75歳)

このイベントは延辺(エンペン)朝鮮族自治州では一つの朝鮮族モデル家族として取り上げられ、地元の龍井市の副市長も参席して祝賀の挨拶とお辞儀を行った。

後ほどは延辺州官営テレビ局により特別番組(「愛へ向かう道」というシリーズ・ドキュメンタリー)を制作し放映された。

貧しい農家出身の8人兄弟姉妹の中、6人の大学生を輩出、1人の軍人将校を輩出したので、子育てに成功した家庭は地元では珍しかった。

我が家の兄弟を簡単に紹介すると下記の通りである。

長女は貧しい生活環境の中でも、熱心に勉強して地元の延辺大学数学部に入学、卒業して地元の中学教員を長く勤めた後、定年生活を送り、2012年10月76歳の時病気で他界した。1男2女を育てた。

次女は貧しい農村を脱出することを夢見て、県立のスポーツ学校に入学し、スピード自転車の運動員になり、3年間に世界レベルの国際大会に出て銀メダルを獲得した。後ほどは吉林体育大学のコーチとして勤めた後、定年生活を送っている(現在85歳)。娘2人いる。

3女は、地元の高校で成績優秀で大学に推薦すると言われたが、家計が厳しかったため、地元の師範専門学校を卒業し、生涯小学校教員を務め、定年を迎えていたが、63歳で病気により他界し、2女1男がいる。

4女は、文化大革命最中に高校を卒業したので、大学に試験制度が破壊されたため、地元の農村に戻り農業に従事していた。高い学力を持っていたので、後ほど推薦によって延辺大学の短期研修プログラムに参加した後、地元の小学校教員を長く務めた後、定年生活していたが、73歳で病気により他界し、2男がいる。

写真:著者(前列真ん中)の結婚式の日(1988年2月28日、於龍井):両親と兄弟8名とその配偶者達

長男は、文化大革命期に高校を卒業し、そのまま農村に戻って農業に従事していたが、20歳になって中国人民解放軍に入隊し、15年の軍人生活の末、長春(吉林省)の国営企業幹部として勤めた後、定年を迎えた。娘2人いる。

次男は、文化大革命の影響をもろに受け、中学卒業後は農村に戻り、農業に従事していたため、故郷で両親の守り役を務めていたが、定年を迎えている。

3男は高校を卒業した後、農村に戻って農業に従事していたが、文革が終わりで大学受験制度が回復された後、第1期に吉林大学日本語学科に入学し、卒業後は地元の延辺大学で日本語教員になっていた。1989年に家族同伴で日本に来て定住し、18年間暮らした後、延辺大学に戻って教授となり、定年後は2019年から韓国の釜山にある新羅大学の招聘教授として3年間日本語を教えた後、2022年3月からは、中国山東省の某外国語大学に招聘され日本語教授を務めている。1男1女いる。

 4男の私は、大学と大学院卒業後、北京で大学教員になったときに結婚し、日本に来てから息子一人を生んで育てた。

以上、紹介した通り、我が家族は朝鮮半島から中国に移住して100年以上の歴史を持ち、その後は中国から日本や韓国へ留学したり移住しながら、東アジアの3カ国を生きている国際ファミリーである。