李 鋼哲所長の回顧録(連載)④:青春時代までの総括

自分の人生を総括するときに、私は何時もこう考えている。

自分は生まれるときから不運児である。未熟児として生まれた子牛と同じで、生まれてから飢餓の中で育ち、成人するまで不遇のために、人生に自信がなく、大きな夢も見ることができなく生きてきた。

昔、田舎でリンゴ梨(リンゴと梨を接ぎ木してできた果物、故郷延辺の名物)を収穫して市場で売るためには、選別が必要であり、1等から3等まで選別していたが、その中の3等品のリンゴ梨がなんと私の人生と同じ運命のような気がした。そして3等品は3つの欠陥を持っているものだとたとえることができる。

成人になってから自分の人生を振り返ると、いつも自分との戦いで、その3つの欠陥を補うための過程であったと思われる。つまり3つのハンディを持っており、そのハンディを補いために戦った人生だと思われる。それではどんなハンディなのか?

まず、一つ目の欠陥は身体のもの。大躍進時代に生まれた私は、貧困と飢餓の中で生まれてから栄養不良でポリオを患っていたので障碍者であり、神様は私に他人と平等な人生の機会を与えてくれなかった。そうなったら、人間の本能として、他の機能を開発し、足りないところを補うしかない。

そこで、「身体の欠陥」を補うためには、意識的にも無意識的にも他人と同じ行動をとるように頑張るしかない。

障害の足を引きずりながら、小学校に入学してからは熱心に勉強することは言うまでもなく、課外活動にも抜けることがなく熱心に参加した。学校で肉体労働(農業を勉強するための農作業)などもあったが、他人に遅れまいと一所懸命にかかわった。そして、恥だとは考えずに、仲間と一緒にサッカーやバレーボールやその他の運動に参加した。大学に入っては障害の足を引きずりながら、マラトンまで走ったこともあった。

それを通じて、強い意力を育むことができたし、運動をしたために、足の状態は悪化することはなかった。この種の病気は運動しなければ足の筋肉が委縮しがちだという。

二つ目の欠陥は、知識の欠乏。私が小学校に入る1966年からは、中国では文化大革命が起こり、学校教育にも大きな影響を与えていた。権力者の毛沢東の教育方針は、「学制を短縮すべし、教育は革命をすべし」だったので、それまでに12年あった学校の正規教育制度は破壊されていた。

この「文革」が10年間続き、国内では階級闘争が第一で、経済活動が疎かにされたため、中国経済は10年間ほとんど成長せず、逆に生産力が著しく破壊されていた。1976年9月に毛沢東がなくなると、「文革」も終息し、78年には鄧小平が権力を握ると「経済建設」を優先する路線を打ち出した。いわゆる「改革・開放」政策である。

10年間続いた「文革」大動乱の影響で、教育制度が破壊され、大学受験制度もこの10年間はストップされていた。教育内容も学生は労働者、農民に勉強すべきだとの方針で、12年勉強すべき教育内容を9年間(小学校5年間、中学校2年間、高校2年間)履修することになり、学校では講義は疎かにされ、農業労働や工場労働をするのが一般的になっていた。都会では学校卒業した若者を農村に「下放」(農村地域に集団で送り出し、農民の体験をさせること、結局は都市部の失業対策であった)させていた。

農村出身の若者は、卒業したらそのまま全員農村に戻り、農業生産に従事することしかできなかった。自分もその流れに沿って、農村の「生産隊」(村であるが、軍隊編成のように「生産隊」と呼んで、いくつ村が一つの「生産大隊」になり、その上には「人民公社」という地方政府組織があった)に戻り、農業生産の労働を余儀なくさせられた。身体の欠陥を持つ上、「知識の欠陥」ももったまま、田舎の農民に転身したのである。

農村での厳しい肉体労働の中で、「身体の欠陥」者の私は、このままの人生に未来の希望を見いだせず、悩んでいたところ、1978年に独学で吉林大学日本語学部に入学した兄から手紙が来て、「君も大学受験してみたらどうか?」との言葉に心を動かされ、一つの希望を見出そうとした。

しかし、大学受験をすることは、「知識の欠陥」を持つ私にとっては、そんなに簡単なことではなかった。当時、農村部ではほとんど大学受験に合格する人が少なく、私が所属する生産大隊(約300世帯)では、数年に1人の合格者が出るくらいなので(農村での受験者の合格率がおおよそ1千分の1~1万分の1程度だった。

それでも、人生を変えるにはこの道しか残っていなかったと自覚し、働きながら独学し、4年間大学入試にチャレンジした結果、全県の首席で北京の「中央民族大学」哲学科の大学生になった。そのプロセスは後ほど詳述する。涙が出るストーリがあるのだ。

3つ目の欠陥は、心理的欠陥。田舎の貧しい生活、身体の欠陥、それに知識の欠陥を持っているため、人生に自信を持っていなかった。田舎にいれば、まず、結婚もできないだろう、と思った。

ただし、我が兄弟姉妹は8人もいるが、もっと貧しい1950年代に長女のお姉さんが大学に入れたので、それがモデルになっているのだろうか、兄弟は次々と劣悪な農村環境を離れ、大学に行ったり、軍隊に行ったりしていた。お母さんは、村人たちに、「うちの息子を清華大学に送りたい」と話したらしく、その大学がどんな大学かも知らないながら、友達に「清華大学」という綽名をつけられて揶揄われるようになった覚えがある。つまり、それは夢の夢で妄想するとの意味で言われたので恥ずかしささえ覚えた。

身体の欠陥があり、身体が弱いのでしょっちゅう仲間に虐められていたので、心理的な病の抱えることになった。

21歳で大学生になり、大学のクラスではリーダーになっていたので、その後長い時間をかけて、その心理的な欠陥、自信のなさは徐々に克服されてきた。