私は大躍進運動が始まる1958年12月(旧暦、新暦では1959年1月)に、中国全体が食糧難で飢饉に見舞われる中で生まれた、生まれてからは母親が病気で、母乳もなく、お粥もまともに食べられず、栄養不良の中で育っていた。当時は中国で流行していた伝染病ポリオを患い、貧困の中で治療もできず、障碍者(ポリオ後遺症)を残したまま、今まで生きてきている。
1960年筆者が2歳の時の家族写真(お母さんに抱かれているのが筆者)
極度の苦難の中ではあったが、小学校から高校まで不完全ではあるが(当時は毛沢東の学生を短縮する方針のため、9年間(小学校5年、中学校2年、高校2年)で高校を卒業した。卒業後(1977年6月)は農村(生産隊という集団農業)に戻り、農業労働に従事した。3歳上の兄が1978年3月に吉林大学日本語学部に入学した後、私に手紙を送って聞き手「君も大学試験やってみたらどうか?」とアドバイスをしてくれたので、その年6月から大学受験にチャレンジ、しかし失敗に失敗を重ねながら、4年間(全国統一試験であるため1年に1回しかチャンスがない)入試に挑んだ結果、1981年9月に首都北京の中央民族大学政治学部哲学科に入学することができた。私にとっては夢にも思わなかった成功の道であった。
大学卒業後は、北京市共産党委員会の北京市委党校で初めて大学院生を募集したので、その試験に合格し(大学2年生で共産党党員になり学生リーダーとして活躍)、そこで「共産党研究」専攻を履修し、共産党のエリートとしての養成を受けたので、将来は政治家を目指していた。
ところが、当時の中国での政治的風雲の悲惨さ(1987年1月に胡耀邦総書記の失脚)を悟り、政治家の夢を諦め、北京の全国労働組合総会(全国総工会)傘下の中国工運学院という大学で専任講師として勤めた。
その間、1989年6月に天安門事件を目の当たりにして(事件が起こる前の学生・市民のデモに何度も参加)、中国の未来に失望した。人生を彷徨う中で、兄が日本に移住し、東京にある日本語学校の入学手続きをしてくれたので、大学の専任講師の職を辞め、日本留学の道を選ぶことにした。
1991年の5月、人生初めの海外体験として北京空港から成田空港に向かって旅立った。お金もなく、裸一貫での留学だった。そして、生計と学費のために一所懸命にアルバイトしながら独学し、後ほどは立教大学大学院の経済学研究科修士課程に入学した。そこで博士課程まで勉強しても日本で就職することはほぼ不可能だったので、人生の道を彷徨っていた。
研究活動の中、たまたま人生の出会いで、生存の道が開かれた。大学院では東北アジア(環日本海)経済圏の構築に関する研究をしていたので、東京にある環日本海総合研究機構(INAS、環日本海超党派議員フォーラムと国内有数な研究者たちにより設立されて一般シンクタンク)と出会い、そこで政策研究プロジェクトとして「北東アジア開発銀行」の創設に関するフィージビリティ研究」というテーマで、2001年に東京財団(笹川財団の子財団で国の政策研究をする財団)に助成金を申請したが、見事に許可が下りて、たまたま運よくその研究プロジェクトのコーディネートとして、東京財団の研究員になった。そこで1年半の調査研究を実行し、その成果として政策提言書を作成し、日本政府の小泉純一郎首相宛に政策提言を行う機会に恵まれた。
2002年7月29日に、当時内閣府官房長官であった福田康弘官房長官にアポを取り、研究チームのリーダーとともに内閣府に入り、直接政策ブリーフィングを行うという、私にとっては想像もできなかった奇跡的なことが起こった。
その成果が後ほどの人生の道を開くのに大きな役割を果たした。2003年4月には名古屋大学経済学部の平川均教授が私を外国人招聘研究員として半年間、国際経済動態研究所で自由に研究する機会を提供してくれた。
丁度そのころ(2003年夏)に、日本政府内閣府傘下の総合研究開発機構(NIRA)で初めて若手研究員を公募していたので、それに応募し見事に合格した。同年11月から3年間NIRAの研究員・主任研究員を務め、東北アジア地域協力に関する日中韓3ヵ国の国策シンクタンクによる共同政策研究に従事することができた。3カ国語が自由に駆使できるという自分の強みを生かすことができ、東北アジアおよび世界を檜の舞台として行き来しながら3年間の研究生活を送ってきた。人生にとって最も輝く時期であったと思う。
3年間契約期間が終了し、2006年11月より金沢にある北陸大学の教授に転身。それも不思議な縁で、2000年8月に台北で開催された「北東アジア地域協力に関する国際シンポジウム」に参加した時に、北陸大学の北元喜朗理事長(当時)に出会って、彼に気に入られ、誘われて北陸大学に就職するようになった。
私自身は現代中国の怒涛の歴史の中で、波乱万丈の人生の道を歩み、本日に至っている。中国生まれの朝鮮族で、日本に来てからは東北アジア地域を檜舞台に活動しながら経済共同体構築に向けて頑張ってきた。
そのような自身の経験談を通じて、若者たちの人生に少しでも役立てることができることを願って、この自叙伝を書く次第である。