- 第5話 日本留学10年間の苦学と人生修行
- 日本との縁
田舎での日本人との出会い
日本については幼い頃から憧れていた。
当時の私たちにとって日本と言えば、抗日戦争に関する映画を多く見ることができたので、日本軍の残忍無道な悪行についての認識が全てであった。また、映画で使われる日本語の「トツゲキ」や「バカヤロー」という言葉は、中国では子供の戦争ゴッコでよく使われていた。
人民公社では農村の文化生活を向上させるため、専業の映画上映隊を組織し、定期的に農村の各村を巡り、小学校の運動場などで夕方になると映画を上映していた。テレビも映画館もない時代であったので、映画鑑賞を楽しむために5里の道を歩いて仲間たちと言ってきたので、それは生活を楽しくする重要なイベントの一つであった。
そんな中、私には小学生のころから日本人との縁ができた。私の運が良かったと言えるかもしれない。
文化大革命時期の最中の1968年頃、私が暮らしている村には石熙満(せききまん)という有名な画家とその家族7人が下放(移住)されてきた。石画伯は延辺芸術学校の美術教授であったが、妻が日本人という理由で延吉市から貧しい田舎に移住させられてきた。当時は「文革」という時期で、不純分子は「労働改造」という名目で仕事を失い、貧しい田舎の生活を余儀なくされることになった。
「下放」とは、文化大革命時期に毛沢東の階級闘争路線に基づいて、人々を階級に分け、労働者階級や貧しい農民階級を革命の主力とし、知識人や政府幹部一部、また過去(新中国が建国する前に)に土地を持っていた地主や富農(割と豊かな生活ができる農民)として扱われるや、外国と親戚関係がある人々を階級闘争の対象および思想改造の対象として農村に強制移住させ、農民から教育を受けるためには、農作業をしながら思想を改造するという当時中国の特異な政策であった。
石画伯の家には日本人の妻と5人の子供がいたが、末っ子は私と小学校の同級生だったので、時々友たちの家に遊びに行き、日本人の家族生活を観察することができた。生活様式や礼儀作法など、独特なところがあり、「日本人ってこうなんだ」と神秘感を感じていた。
石画伯は1930年代に日本の植民地であった朝鮮の清津市から日本に留学したという。東京美術大学で美術を学び、後に日本人女性と結婚していた。日本が敗戦した後、吉林省省長の招聘を受け、外国から帰国の人材として延吉にある大学の美術教授として勤務していた。彼の弟も日本に留学し、日本人と結婚して日本国籍を持ち、日本人になっていたという。
石画伯は海外から帰国した人材として扱われ、彼の給料は吉林省長とほぼ同等の月給150元だったと同級生から聞いている。当時中国で大学卒業の学歴を持っている人の月給は一律54元(人民元)であり、それが1949年~1980年頃まで焼く30年間変わっていなかった。
大卒レベルの公務員などの3倍の給料であるため、農村の貧しい農民から見ると、天文学的な高級をもらっている裕福な家族に見えた。そして、農民たちは急にお金が必要な時はその家に借りに行くことがたびたびあって困らせたという噂を聞いている。
当時、農村の家では手元に1元、2元であっても大金だった。農民たちが一年間働いて、秋には所得配分が行われるが、私の家族6人中4人が働いて、年末配分する所得は100元程度で、これを4人の労働力で計算すると一人当たり年収25元程度、月給で換算すると2元程度であった。都市部で労働者として働いたら20元から50元台で給料をもらうのが、一般的だったので、都市と農村間の所得格差は当時10倍から30倍くらいはあったと推測できる。
教科書では中国では社会主義制度を実施して平等を実現したと言われるが、実態としてはこれほど格差が大きかったことは明らかである。もちろん、農民の所得を見ると平等であったと言えるかも知れないが。
話を戻して、1972年私が小学5年生の頃、中国は日本と国交正常化を実現したので、日本との交流が少しずつ始まったとは言え、農村の人々はそのような国の政治や国際事情を全く知らない状況であった。後に大学生になってからそのようなことを知るようになった。
同級生から、叔父(石画伯の弟)が日本から親戚訪問で、兄貴が暮らす我が村に来ると聞いた。外国の客が初めてこの山村に来るということで、政府は人力と物力を動員して村をきれいに掃除し、石画伯の家もお金と人力を使って整えるよう指示があったという話も聞いた。農村の貧しく粗末な姿を外国人に見せることは、中国ではメンツを保ちたい政府としては特別な対策をとったということ。
石熙満画伯の息子、私の同級生だった友人から後に聞いた話によると、日本は非常に発展した国であり、所得が中国農民の100倍くらいという聞いたので、「そんな国があるのか」と驚いたが、日本がどこにあるのかさえ知らない無知な農民の子供にとって、それは手の届かない「天国」のようなものだった。
延辺というところは、朝鮮族の人々が多く住んでおり、日常会話は朝鮮語であるため、朝鮮族が日常的に使う言葉には、日本語がかなり多く含まれていることに、後に日本に来てから気づいた。それについては近代の日本と朝鮮半島そして満州国という時代的な背景が深く関係していることを日本に来て勉強してわかった。
日本の満州国統治と皇民化教育の影響が大きかったことも、日本に来て初めて知ることになった。例えば、朝鮮語の日常の会話で使われているバケツ、電気玉(電球)、サルマダ(パンツ)、ワイシャツ(ワイシャツ)、上着(うわぎ)、半ズボン(短いズボン)などは語源が日本語だったということも、日本に来て勉強してわかった。
日本語を独学が始まったきっかけ
1977年6月に一応高校というものを卒業し(高校卒業と言っても、当時は学制を短縮するという毛沢東の方針で、小学校は5年間、中学校は2年間、高校は2年間、合計9年間教育しか受けていない)、農村の生産隊に戻って農作業をしていたところ、その年の秋に大学試験が復活するという噂が広がっていた。
中国では文化大革命の期間中の10年間(1966年~76年)は大学入試制度が廃止され、工(老)農兵大学という制度が導入された。この制度では、労働者、農民、兵隊の中から大学生を選抜推薦するという制度であったが、その推薦基準は学力がなくても、体制を擁護し、毛沢東思想をよく勉強し、一生懸命に働く青年が推薦され、審査を受け大学に進学するというものでした。大学に入学しても学科勉強よりは政治や思想の勉強が中心だったと後ほどわかった。それでも推薦されて入学すれば、公務員になったりして都市戸籍に転換することは可能であったため、一つの出世の道ではあった。
そのような制度や政策を実行したため、小学校から中学校、高校に進学する時に試験勉強が全くなく、勉強ができて大学に進学するという意識も全くなかった。つまり、受験勉強という今では多くの子供や若者を困らせることはなかった。
私たちの子供時代には、生活は貧しかったものの、さまざまな遊びが多く、現代の子供たちのように試験勉強に追われることもなく、ストレスが何であるかも知らずに育ったので、今振り返ると本当に幸運なことだったと思う。
その時、私より3歳以上年上の三番目の実兄は、生産大隊の出納係の専門職として働いており、余裕があったため日本語の勉強もしていましたし、小説もたくさん購入して読んでいた。そのおかげで、私も多くの小説を読むことができた。
父親も文字が読めるので多くの小説を読んで、村の老人たち(文字や読めない、当時は識字率が低かった)に『水滸伝』などの物語をしていたので大人気であったことを覚えている。貧しい農民であったが、ある程度は文化的な素養がある家族であったと言える。
そのおかげもあって実姉も4人も大学や専門学校に進学し、卒業後は教育者として働いていたので、農家から連続大学生を輩出することは、農村では非常に珍しいことであった。
農業労働現場で、生産隊の隊長から大学受験制度が回復し、若者は受験できるとの話を聞いた。ところで、その情報を聞いても私とは縁がないことだと思っていた。なぜかというと、私のような障碍者が大学生になるわけがないと、勝手に思い込んでいたからである。
実兄が大学受験の勉強をしていることは知っていたが、自分はダメ人間だと思っていたので、恥ずかしかったのか、受験について兄に相談したこともなかった。兄は農業労働をしない職業であったので、独学で日本語の勉強を始め、大学試験に優秀な成績で合格し、名門大学の吉林大学日本語系に第1期生として入学した。私は心でうれしい気分がある反面、自信には縁のないことだと思った。「私も大学に行けるのか」と兄貴に気軽に聞くことができなかった。
大学に行った兄貴からの手紙一通をもらった。「君も受験してみたらどうか?」。その一言で、私にも希望があると思って、翌年から受験してみようと思った。そして農業労働の隙間に受験勉強を始めた。その詳細については別の章で紹介しているのでここでは省く。
最初の3年間は大学入試に外国語科目がなかったが、4年目の1980年から外国語試験が追加されたという知らせを聞いた。 しかし、私は高校まで卒業しても外国語なんて習ったことがなかった。これから外国語試験があるのに、どうやって勉強を始めればいいのか悩みました。
そこで兄に手紙を書いて助けを求めたら、兄は日本語の教科書を一冊送ってくれた。 しかし、どうやって勉強を始めればいいのか分からなかった。その頃は録音機(テープ・レコーダー)もない時代だったからだ。
そこで考えた末、勇気を出して同級生の石華伯の家を訪ね、日本人の母親に日本語の仮名文字の読み方だけ教えてほしいと頼んだ。その母親は快く承諾して1週間ほど仮名の読み方を教えてくれた。これは私の運命を変える重要な機会だった。
その結果、今私が日本で暮らすようになったのも、その時の運命的な縁のおかげである。 そのおばあちゃんはその後、2000年頃にご家族と一緒に日本に帰国して生活し、石画伯は2005年に93歳で亡くなり、おばあちゃんは2021年に100歳で亡くなった。彼女は私の最初の日本語の先生だったし、後ほどその家の娘が私の兄貴と結婚したので、義理の親戚になっていた。それで日本に来てからもその家とは、10年間同じ村に住んでいた知人なので、常に会って交流することができました。
私の最初の日本語の先生、中村幸子さん(2018年3月18日、97歳の誕生日、東京にて)
その後、農作業をしながら空いた時間に日本語を自習し、その結果、4年間に4度目のチャレンジで大学受験に成功し、村から首都北京に飛び立つことができるようになり、日本語もかなり上達した。
大学に入ってみると、外国語は英語が必須科目で、日本語は先生も科目もなかったので、私は2年生まで英語を学ぶことになった。初めての外国語であり、何の役に立つのか全く考えもせず、興味もなかったのである。今思えば、その時に学んだ英語の基礎があったからこそ、後で役に立つ重要な言語だった。
当時、大学の新入生の中には、高校ですでに日本語を学んだ学生がかなりいたので、大学では北京外国語学院から日本語の講師を招いて日本語講座を開設することになった。そこで私は英語を学びながら、日本語の講義に熱心に参加した。
そんな中、また新たな機会が生まれました。大学に日本からの短期留学生が15人ほど来ていて、彼らは大学を卒業後、会社員として就職した後、中国語の勉強をするために留学してきたのだ。大学では毎年大学生の運動会が開催され、運動場で日本人学生が見物をしているのを見て、好奇心旺盛な私は彼らに声をかけた。日本語で挨拶をすると、日本人学生たちはとても嬉しそうに挨拶を交わし、その後交流することを約束し、頻繁に会うようになり、丸谷正延という1歳くらい年上の友人と会い、日本語の会話の練習をすることができた。お互いに仲良くなると、宿舎に招待して簡単な料理を作ったり、お酒を飲んだりして、いつの間にか親友になった。
頻繁に交流することで、日本語の会話レベルは飛躍的に向上した。大学の日本語の先生は、授業中に私に「李さんの日本語のレベルは、外国語大学の日本語学科の4年生よりも高い」と評価してくれたので、とても自信がついた。
丸谷さんは留学を終えて日本に帰国し、その後、貿易会社に就職し、会社の北京支社で働くことになった。そのため、大学を卒業した後も友人として付き合い続けていた。
私は哲学専攻なので、日本の哲学や政治に興味を持ち、大学から近い北京の国立図書館に通い始め、図書館の日本館には日本政府から寄贈された本がたくさんあり、熱心に読むことができたのは本当に幸運だった。
日本語を学び、日本人の友達もできると、日本に対する興味が高まった。読書を通じて日本に対する理解はさらに深まる一方で、大学のクラスメートからは「李さんは日本通だね」と言われた。その時代は日中関係の黄金時代であり、当時は中国人とりわけ若者の日本への関心はとっても高く、日本の映画やドラマが人気であったので、日本人と自由自在に交流する私を見て、まわりのクラスメートは羨望の目でみていた。
当時、日本留学は不可能だと思っていたので、日本語は単に外国語に対する趣味で勉強していたが、それが後ほど私の日本留学を決意するきっかけになったことを思えば、人生の未来はなかなか予測できないものと思われる。
日本語を勉強して培った知識と興味が、後に日本留学を決定するのに役立った。どんなことでも、私たちがどんな分野に興味を持ち、努力し、学んでいけば、その結果は予想外の形で私たちに返ってくるという大切な経験であった。だから、人生を楽しみながら好奇心を持ち、興味のある分野を探求することはとても大切なことだと思う。