- 日本との縁
田舎でできた日本人との縁
日本については幼い頃から憧れていた。
当時の私たちにとって日本と言えば、抗日戦争に関する映画を多く見ることができたので、日本軍の残忍無道な悪行についての認識が全てであった。また、映画で使われる日本語の「トツゲキ」や「バカヤロー」という言葉は、中国では子供から大人まで知らない人はいなかった。
政府では農村の文化生活を向上させるため、専業の映画上映隊を組織し、定期的に農村の各村を巡り、小学校の運動場などで夕方になると映画を上映していた。テレビも映画館もない時代であったので、映画鑑賞を楽しむために5里の道を歩いて仲間たちと言ってきたので、それは生活を楽しくする重要なイベントの一つであった。
そんな中、私には小学生のころから日本人との縁ができた。私の運が良かったと言えるかもしれない。
文化大革命時期の最中の1968年頃、私が住んでいる村には石熙満(せききまん)という画家とその家族7人が下放(移住)してきた。石画伯は延辺芸術学校の教授であったが、妻が日本人という理由で延吉市から貧しい田舎に移住してきた。当時は文革という時期で、不純分子は「労働改造」という名目で仕事を失い、貧しい田舎の生活を余儀なくされることになった。
「下放」とは、文化大革命時期に毛沢東の階級闘争路線に基づいて、人々を階級に分け、労働者階級や貧しい農民階級を革命の主力とし、知識人や政府幹部一部、また過去(新中国が建国する前に)に土地を持っていた地主や富農(割と豊かな生活ができる農民)として扱われるや、外国と親戚関係がある人々を階級闘争の対象および思想改造の対象として農村に強制移住させ、農民から教育を受けるためには、農作業をしながら思想を改造するという当時中国の特異な政策であった。
石画伯の家には日本人の妻と5人の子供がいたが、末っ子は私と小学校の同級生だったので、時々友たちの家に遊びに行き、日本人の家族生活を観察することができた。生活様式や礼儀作法など、独特なところがあり、「日本人ってこうなんだ」と神秘感を感じていた。
石画伯は1930年代に日本の植民地であった朝鮮の清津市から日本に留学したという。東京美術大学で美術を学び、後に日本人女性と結婚していた。日本が敗戦した後、吉林省省長の招聘を受け、外国から帰国の人材として延吉にある大学の美術教授として勤務していた。彼の弟も日本に留学し、日本人と結婚して日本国籍を持ち、日本人になっていたという。
石画伯は海外から帰国した人材として扱われ、彼の給料は吉林省長とほぼ同等の月給150元だったと同級生から聞いている。当時中国で大学卒業の学歴を持っている人の月給は一律54元(人民元)であり、それが1949年~1980年頃まで焼く30年間変わっていなかった。
大卒レベルの公務員などの3倍の給料であるため、農村の貧しい農民から見ると、天文学的な高級をもらっている裕福な家族に見えた。そして、農民たちは急にお金が必要な時はその家に借りに行くことがたびたびあって困らせたという噂を聞いている。
当時、農村の家では手元に1元、2元であっても大金だった。農民たちが一年間働いて、秋には所得配分が行われるが、私の家族6人中4人が働いて、年末配分する所得は100元程度で、これを4人の労働力で計算すると一人当たり年収25元程度、月給で換算すると2元程度であった。都市部で労働者として働いたら20元から50元台で給料をもらうのが、一般的だったので、都市と農村間の所得格差は当時10倍から30倍くらいはあったと推測できる。
教科書では中国では社会主義制度を実施して平等を実現したと言われるが、実態としてはこれほど格差が大きかったことは明らかである。もちろん、農民の所得を見ると平等であったと言えるかも知れないが。
話を戻して、1972年私が小学5年生の頃、中国は日本と国交正常化を実現したので、日本との交流が少しずつ始まったとは言え、農村の人々はそのような国の政治や国際事情を全く知らない状況であった。後に大学生になってからそのようなことを知るようになった。
同級生から、叔父(石画伯の弟)が日本から親戚訪問で、兄貴が暮らす我が村に来ると聞いた。外国の客が初めてこの山村に来るということで、政府は人力と物力を動員して村をきれいに掃除し、石画伯の家もお金と人力を使って整えるよう指示があったという話も聞いた。農村の貧しく粗末な姿を外国人に見せることは、中国ではメンツを保ちたい政府としては特別な対策をとったということ。
石熙満画伯の息子、私の同級生だった友人から後に聞いた話によると、日本は非常に発展した国であり、所得が中国農民の100倍くらいという聞いたので、「そんな国があるのか」と驚いたが、日本がどこにあるのかさえ知らない無知な農民の子供にとって、それは手の届かない「天国」のようなものだった。
延辺というところは、朝鮮族の人々が多く住んでおり、日常会話は朝鮮語であるため、朝鮮族が日常的に使う言葉には、日本語がかなり多く含まれていることに、後に日本に来てから気づいた。それについては近代の日本と朝鮮半島そして満州国という時代的な背景が深く関係していることを日本に来て勉強してわかった。
日本の満州国統治と皇民化教育の影響が大きかったことも、日本に来て初めて知ることになった。例えば、朝鮮語の日常の会話で使われているバケツ、電気玉(電球)、サルマダ(パンツ)、ワイシャツ(ワイシャツ)、上着(うわぎ)、半ズボン(短いズボン)などは語源が日本語だったということも、日本に来て勉強してわかった。
日本語を独学が始まったきっかけ
1977年6月に一応高校というものを卒業し(高校卒業と言っても、当時は学制を短縮するという毛沢東の方針で、小学校は5年間、中学校は2年間、高校は2年間、合計9年間教育しか受けていない)、農村の生産隊に戻って農作業をしていたところ、その年の秋に大学試験が復活するという噂が広がっていた。
中国では文化大革命の期間中の10年間(1966年~76年)は大学入試制度が廃止され、工(老)農兵大学という制度が導入された。この制度では、労働者、農民、兵隊の中から大学生を選抜推薦するという制度であったが、その推薦基準は学力がなくても、体制を擁護し、毛沢東思想をよく勉強し、一生懸命に働く青年が推薦され、審査を受け大学に進学するというものでした。大学に入学しても学科勉強よりは政治や思想の勉強が中心だったと後ほどわかった。それでも推薦されて入学すれば、公務員になったりして都市戸籍に転換することは可能であったため、一つの出世の道ではあった。
そのような制度や政策を実行したため、小学校から中学校、高校に進学する時に試験勉強が全くなく、勉強ができて大学に進学するという意識も全くなかった。つまり、受験勉強という今では多くの子供や若者を困らせることはなかった。
私たちの子供時代には、生活は貧しかったものの、さまざまな遊びが多く、現代の子供たちのように試験勉強に追われることもなく、ストレスが何であるかも知らずに育ったので、今振り返ると本当に幸運なことだったと思う。
その時、私より3歳以上年上の三番目の実兄は、生産大隊の出納係の専門職として働いており、余裕があったため日本語の勉強もしていましたし、小説もたくさん購入して読んでいた。そのおかげで、私も多くの小説を読むことができた。
父親も文字が読めるので多くの小説を読んで、村の老人たち(文字や読めない、当時は識字率が低かった)に『水滸伝』などの物語をしていたので大人気であったことを覚えている。貧しい農民であったが、ある程度は文化的な素養がある家族であったと言える。
そのおかげもあって実姉も4人も大学や専門学校に進学し、卒業後は教育者として働いていたので、農家から連続大学生を輩出することは、農村では非常に珍しいことであった。