李 鋼哲所長の回顧録(連載)⑧:第3話 民族と国を超えた「東北アジア人」

第3話 民族と国を超えて「東北アジア人」として生きる

私は何人?アイデンティティの葛藤―

「天生我才必有用」という中国の諺、その意味は、世に生まれた人は誰でも必ず役に立つ。

それでは、私は誰なのか?この世に生まれた私のアイデンティティは何なのか?私は何の役に立つ人間なのか? 私は何のために生き、どのように生きるべきですか?

などの問いを考え、答えなければならない。

読者の方々も私と同じか似たような悩みを持っている方が多いと思う。とりわけ自分の生まれ育った故郷を離れ、他の地域、更には海外に出て暮らすと必ず「あなたは誰?」 「あなたはどこから来たのか?」 と聞かれることがある。

私は最初は「中国から来ました」と答えていた。しかし、私のような人は朝鮮民族であるため中国人(大多数の漢族)とはまた違うのである。日頃使う言語や生活方式が違うし、文化や精神的な面でも異なる点が多い。

だからと言って「朝鮮族」と答えたら、相手からは「朝鮮から来たのか?」と思われるだろう。「中国の朝鮮族です」と答えたら、今度は「何?中国人なのかそれとも朝鮮人なのか」相手は困惑することがある。

20数年前のある面白いエピソードを紹介しよう。

某朝鮮族青年がアメリカに渡航した時、空港の入国審査官は「あなたはどこから来たのか?」 と尋ねられたら、その青年は不得意な英語で「I’m a Korean Chinese」と答えたそうだ。すると審査官は「Are you a Korean? Or a Chinese?」 と聞かれたために、説明に困っていたという。

私も日本に来てもから、最初は同じ状況に遭遇した経験があった。実際に朝鮮族出身者が日本に留学や仕事で渡航してきたのは約40年前の1980年代後半からである。日本人から「どこから来たの?」 と聞かれたら、躊躇なく「中国から来ました」と答える。中国パスポートを持ち、中国から来たから当たり前のことだった。

90年代以降、朝鮮族青年たちが大量に渡日し、東京をはじめ全国に推計約8万人(中国国籍だから詳細な統計は不可能)が暮らしている。彼らは様々な民間団体を結成し交流活動をし始めており、日本社会で徐々に注目されるようになり、マスメディアもしばしばその活動ぶりが報道されていた。そして今の日本人は「朝鮮族」と言えば「知っている」と言う人が多く、自分の友人や知人にも朝鮮族がいると話してくれる。

しかし、朝鮮族という身分を隠したがっている人々もいる。

一つエピソードを紹介しよう。

1995年夏、我が夫婦は京都と名古屋で旅行したことがある。京都の旅が終わった後、名古屋に寄り、北京での友人の妹夫婦が暮らすお宅を訪ねた。以前は北京でお互い知っている間柄で、旦那さんは北京から留学に来て、九州大学で工学系の博士課程を卒業した後、トヨタ自動車関連のアイシン精機という会社にエンジニアとして就職していた。

北京で出会って以来、久しぶりに日本で会ったので、嬉しくて出迎えた夫婦と話を交わし始めた。故郷が同じで延辺であり、朝鮮族同士であったので、朝鮮語で挨拶してお話しをかけた。ところが、奥さんは「ここでは朝鮮語を喋っては駄目です」というので、 「なぜですか?」と聞いたら、「日本では在日朝鮮人たちはここで差別を受けるため、自分たちは中国人と周りに知らされている」と答える。

「え?そうなんですか?!」、しょうがないので、中国語に切り替えて会話することにした。だが、心の中では「可笑しいな」と納得がいかなかった。

後ほど東京でも慶応大学に訪問学者として来た知り合いも同じようなことを言っていたので、なるほど、人々はいろんな考え方をもって日本でくらしているんだな、と思った。

私自身や妻と息子は、東京に住み、日本人との交流の中で、隠すことなく「中国の朝鮮族です」と紹介していた。民族差別や偏見があることは気づいていなかった。

1990年代に韓国に行っても少なくない朝鮮族の人たちが自分の朝鮮族という身分を隠して「韓国人」または「中国人」として生きていることを後で知るようになった。

1995年、私の実兄(中国国籍)と兄の義弟たち(日本国籍の朝鮮族出身)がソウルに旅行に行ったときに、空港で入国審査の際に朝鮮語(韓国語)でお互いに交わして話したが、入国審査官が疑いの目で、入国理局 調査室に呼んで調査を受けたという話を後に兄の家の酒席で聞いたことがある。おそらく日本国籍所持者と中国国籍所持者が互いに韓国語でやりとりするので疑わしかったようだ。

その時、私はアルバイトしながら勉強する身分であったので韓国に旅行する余裕はなかった。しかし、私は韓国に行けば中国人として中国語を話すことが韓国人の疑いを招かないし、冷たい視線からも免れるのではないかと思った。

3年後の1998年春に初めて家族旅行で韓国に行くことになったが、仁川空港では一切中国語で対応したところ、特に取り調べもなく無事に通関したことが記憶に残っている。

日本や韓国で初めて差別を意識したのだ。 延辺でも北京でも朝鮮族ということで差別された記憶はなかった。

  1. 日本の地での朝鮮族の位置づけとアイデンティティの悩み

私は日本に来て、兄弟や親戚以外は朝鮮族の知り合いは少なかった。

なぜなら私は延辺の田舎から直接に北京の大学に行ったので朝鮮族知人というと同窓生くらいだった。日本に来たら朝鮮族の知り合いがさらに少なく、大学院では日本人や中国人留学生や韓国人留学生との交流が多かった。

後ほど偶然の機会に朝鮮族団体があることを知った。天地倶楽部という朝鮮族留学生団体が東京で設立され交流活動をしていることが分かった。その団体で活動していた鄭さんという留学生と知り合い、天地倶楽部では毎月セミナーを開催しているので、一度講演をしてくれないかと招待の話が飛び込んできたのが1996年秋であった。

私は大学院で豆満江地域国際開発について研究し、この国際的なプロジェクトの一角を占めているのが延辺朝鮮族自治州の琿春市であるがゆえに、延辺出身の留学生たちはそれについて知りたかったのだ。

それが縁になって朝鮮族の団体活動に参加し始めていたが、数年後は私が主役になりいくつかの提案をして、その一つは当時活動していた3つの朝鮮族団体を束ねて共同活動をすることを企画した。

私は日本の北東アジア関連研究団体の中に入り、日本で何度も北東アジア地域協力に関する国際シンポジウムに参加していたので、国際会議の運営について多少の経験を持っていた。

2000年12月23日には、天地倶楽部が企画する朝鮮族忘年会をきっかけに、目白大学の大会議室を借りて、公開フォーラムを開催することになった。これは日本では初めての朝鮮族によるフォーラムであり、100名以上が参加した。

『朝鮮半島の統一問題と朝鮮族のアイデンティティ』というタイトルを私が提案し、5つの議題を発題し、参加者が自由討論する方式で進めたが、そこでは白熱な議論が展開されていた。

この年の6月に韓国の金大中大統領が平壌を訪問し、「南北共同宣言」を発表したので、朝鮮半島の統一が急速に進むのではないか、という観測すら出てきたので、フォーラムのキーワードの一つになっていた。

もう一つのキーワードは「朝鮮族とは何か?」、「私たちは誰か?」という議題であった。外国の日本に来た若者たちが共感しているのは正にこの議題であった。このフォーラムをきっかけに、私を含めた大勢の朝鮮族若者は自分のアイデンティティ問題を真剣に考え始めたのである。

2.日本のメディアで脚光を浴びる朝鮮族

翌年2001年4月に、私は歴史的なチャンスに恵まれたのである。日本に留学して来て、10年間の苦学した末に私に訪れた絶好のチャンスだった。留学生活とアルバイトに終止符を打ち、研究機関での就職であった。それも国策に関する研究プロジェクトに携わることになった。

笹川財団の子財団である東京財団(政策シンクタンク)の研究プロジェクトの専任研究員として、「北東アジア開発銀行の設立と日本の対アジア政策」という研究課題のための9名の専門家グループが形成されたが、私はこのプロジェクトの事務局長を依頼されたのである。

この機会に私は新しいアイデアを考え、その年の夏に東京にある3つの朝鮮族団体(天地倶楽部、延辺大学校友会、中国朝鮮族研究会)理事たちに呼びかけ、朝鮮族国際シンポジウムを開催しようと提案した。

皆さんの賛同を得て、各団体の活動家14名によるシンポジウム組織委員会を結成し、6カ月ほどの準備過程を経て、12月15日に目白大学講堂を借り、日本で初めて朝鮮族が主催する国際シンポジウムが開催された。

このシンポジウムには、私が日本の学会で交流していた有名人の和田春樹東大教授、日本経営学会の野口タスク会長(日本大学教授)などを招待して基調講演をした。

また、研究者セクションと起業家セクションを設けて発表と討論を展開した。このイベントに対して日本のメディアと日本にいる華人メディアが取材し、新聞報道で初めて朝鮮族活動が脚光を浴びることになった。日本の国際交流財団の活動助成金の支援も得ることができた。

それ以降、国際シンポジウムが2005年12月に第2回、2009年12月に第3回に開催された。この2回は、韓国から在外韓人学会の朝鮮族研究専門家、中国北京の朝鮮族研究専門家、故里延辺のテレビ放送局とハルビンの黒龍江新聞社や日本内学術団体と企業人ら約300人が参加した。

2009年には日本の最大メディア朝日新聞の記者が専門取材を行い、2010年2月12日新聞の1面と2面に「在日朝鮮族 アジアを結びたい」という記事が写真入りで掲載された。

メディアの力は大きい。これはある意味で言えば日本の中心地の東京で朝鮮族を「デビュー」させたと見ることもできる。

その他にも、東京新聞や在日華人メディア、在日韓国メディア、朝鮮族のメディアでも朝鮮族に関する報道などが続いた。

朝鮮族の様々な活動をオープン形式にしたため、日本の地では「朝鮮族」という認知度が徐々に高まり、「市民権」が自然に形成されていると見ることができる。 日本の地で、多くの朝鮮族は誇りをもって生きることができるようになった。

私たちが自分たちを朝鮮族として位置づけるにはもう一つの問題が生じる。

私たち来日第一世帯がアイデンティティ問題に直面していることは言うまでもなく、日本で定住して、子育てをすることになると、第二世や第三世のアイデンティティ問題も生じるのである。

私の息子は日本で生まれ育てたのだが、じゃあ、息子のアイデンティティとは何なのか、また家族としてのアイデンティティは何なのか?という問題に直面する。

息子は小学校に通う時、こういう質問をしてきた。「なぜ私は名字が「リ」という一つの文字なのか?日本の子供たちは皆二文字なのに。私も友達と同じのように二文字の名字が欲しい」と。自ら差別感があったようだが、だからといって学校で「いじめ」られたりすることはなかったと思うが、自分が周りの他人と違うという違和感が生じたようだ。

その質問に私は悩んだ。息子に「私たちは朝鮮族で、中国人だ」と話しても、息子はなかなか理解できないのは明らかなことだから。

親として「私たちは中国人だ。または朝鮮人だ」と教育する方も事実上いるだろう。日本にいる数多くの朝鮮族たちは同じ問題に直面しているのだ。現実的に日本で暮らしている朝鮮族の子供たちは「朝鮮族」にはあまり関心がないのではないかと思われる。だが、子供たちが成長して彼らが社会活動に参加するようになれば、同じ悩みもあり得る。もちろん日本国籍に切り替えて日本名で生きていく若者たちも増えているのが現実だ。

私の息子も大学に入って成年になるので、息子にこういう話をした。

「あなたは日本で生まれ育ち、日本文化の教養を受けたので、当然父親とは考えが異なることがある。しかし、あなたが将来に世界を舞台にし、しっかりと暮らすためには、日本語と英語も上手になることは必須である。しかし、日本人ができない中国語や韓国語ができれば君は競争優位に立つのではないか」。

私たちは今後共通のアイデンティティとして「アジア人」、「東北アジア人」、「地球人」として生きていけばいいのではないか、と息子に話したら、この話が聞き入れたかどうかは分からないが、大学に入ってから韓国語と中国語を選択して履修するようになり、国際交流サークルに参加して、世界各国から早稲田大学に留学してきた留学生たちと友達付き合うのを見て、私は心の中で頷いた。

息子は後ほど韓国の延世大学とカナダのトロント大学にも交換学生として留学し、国籍を越えて多くの友達ができたようだ。

現在はトロント大学で出会ったインド出身の友人と3年前に東京でベンチャー企業を共同創設して運営している。

3.四十にして不惑

今の時代はグローバル化時代であり、地域化時代である。 伝統的に私たちにとっては、世界中どこに住んでも民族を愛し、国を愛しようということが重要な人生価値観だった。 しかし今の時代にはそれだけでは不足している。 もちろん、自分が生まれたルーツ(故郷、国、民族、文化など)はあまりにも重要であり、自己人生の不可欠な部分であり、人生価値の一部である。

しかし、未来を考えるとき、それを越える超民族的、超国家的価値観がさらに重要だと私は考える。 本当の民族を愛するなら、民族や国家のフェンスを超越し、私たちは世界で最初の民族、世界で愛され、尊重される民族を志向しなければならないと考える。 それでは、世界に向かってオープンマインドを持つことは重要ではないでしょうか? なぜユダヤ人は世界中で注目され、尊重されるのですか? 私たちはそれについて深く考え、常に世界的な眼光とマインドを持って世界を学ばなければなりませんか?

私がそれを悟り始めたのは40代に入った後だった。 本当の人生を知るようになったのがこの時だったと思う。 あまりにも遅かったと思うのは、孔子の言葉に40に不烈(四十而不惑)なので、孔子のような聖人も40代になって自分の位置を混同せずに知っていたので、それほど遅いのではないかと思う。

32年前の1991年5月、北京で大学講師を遠慮なく辞職して日本東京に来て留学を始めたが、自分の行く道が見つからず、10年余り迷って生きてきた。 私は目標があって留学をしたわけではない。 また、北京で暮らしにくくて去ったわけでもない。 田舎の貧しい農民から夢に描きながらも人生に一度も行きたかった首都北京で人生の重要な20代青春期を過ごすということは今考えてもとても素晴らしいことであり、誇りにあふれている。

北京生活10年間から6年間は、大学と大学院生活を楽しく、そしてやりがいに過ごしたのでどれくらい寒いのか。 田舎の言葉で言えば本当に心強く出世をしたのだ。 勉強も楽しく頑張ってきたし、中国語も本格的に学び、中国文化の洗礼をたっぷり受けた。 中国語のレベルを高めようと、古大な語も一生懸命学び、当時のソンサ300数を暗記し、また英語も人生初めて学び、立ち上がっても完全に日本人と会話できるレベルで学んだ。 大学院では研究に関連すると考え、ロシア語の本を買って自習をした。 学びの場で哲学と共産党研究の勉強以外にも5つの言語を学んだわけだ。

勉強だけしたのではない。 クラスでは、クラス長を務め、様々な学生活動を組織しなければならず、大学2年の時は全学級で共産党員に加入した初めての人だった。 その後、私が養成した大学生党員だけでも20人を超える。 つまり私は共産党リーダーの芽だったのだ。 だから卒業の時は政治家を目指して当校の大学院に試験報告入学したのだった。

もし当時政治的風波がなかったならば、私は中空中央の統一戦線部や規律検査委員会で事業分配を受けることになっていた。 政治風波乱当時、1987年1月に共産党総書記である胡耀邦が政治的問題により失脚したことだった。 当時、ほとんどの中国人民、特に若いインテリアは、総書記を尊大して崇拝するまでしたが、一日の朝、政治舞台から退かなければならない現実を見て、あまりにもショックを受けて失望した。

その時初めて政治家とは非常に危険な職業であることを悟り、その年6月卒業分配の時は大学教員になって学者をやると当校当局に要望したところ、中華全国総公会(労働組合総会)傘下の大学である中国公運学院(現在は労働関係 大学に名称が変更された。 その時は朝鮮族という意識より中国人という意識が強かったようだ。

もちろん北京でも朝鮮族の友人が多く、朝鮮族運動大会など民族活動があったが、中国社会から中国人としてその中で生きていくのが人生の道だと思った。 また中国人社会では少数民族だとあまり差別なく能力がある者はよく書いてくれた。 さらに少数民族の優秀な人は出世しやすかった。 なぜなら、優秀な民族幹部がいなければ多民族国家をよりよく治めることができるからだ。

私が大学で勉強した半級には学生50人だが、23の少数民族で構成され、漢族は1人もいなかった。 だから大学生活の中ですでに多文化の洗礼を受けたのだ。 その中で共産党員が20人も培養され、その同窓はその後現在、助手民族幹部として出世した人々が大多数だ。 今も中国に出張や訪問に行けばどこに行っても「リバンジャン」のおもてなしを受け、尊大されて歓迎してくれればあまりにやりがいがあると思う。

日本に来て10年間、アルバイトしながら留学生活をしたが、その過程に関しては後で詳細に話す。

4.朝鮮族、中国人から「北東アジア人」へ

「北東アジア人」という言葉は、おそらく私が世界で最初の2000年代に作り出した用語だと思う。 「東亜人」や「東洋人」という言葉は近代に使われていた。 韓国や日本で研究活動をする時に時々自己紹介で書いているので、後には北東アジア研究専門家の中では自然に私をそう認めて呼んだ。

上で話したことがあるのに、日本に住みながら一つの大きな悩みが自分のアイデンティティに関する悩みだった。 中国人なのか、朝鮮(族)人なのか。 その答えは一歩遅れば見つけになった。 結論から言えば、私はこの世界で自分の位置づけを「北東アジア人」と規定した。 なぜなら私の出生地は中国で国籍も中国だが、私の先祖は朝鮮半島出身の朝鮮人(韓国人)であり、朝鮮民族の言語と文化の中で成長した。 私は大学の時から中国人としての中国語と中国文化の洗礼を受けてきた。 日本に来ては日本文化と世界文化の洗礼を受けたので、私は「世界人」や「地球市民」を志向した。 でも私の人生文化で核心的なのは、東北アジア(以前は東アジア)3国だから、また東北アジアの発展と平和を実現することを自分の研究課題と人生価値の目標と考えているからだ。

60年余りの人生に今も私はいつも「Only One」を私の人生目標にしており、それが私の人生の価値であり、自好感だ。 社会的に私は北東アジア地域研究と各種実務活動に参加するが、ここでも私は「Only One」を私の人生価値と考え、誰も取り替えられない李鋼鉄の役割だと思う。

2005年12月に私が所属する日本政府の国策研究所である総合研究開発機構(NIRA)の出張でオーストリアのビンに行き、連合国工業開発機構(UNIDO)の豆満江地域開発に関する専門家国際ワークショップに参加して報告を したことがある。 私の報告の順番になると、私は自己紹介で「私は北東アジアです= I am a Northeast Asian」と紹介し、不器用な英語で私のプレゼンテーション(報告)を始めた。

その会議には連合国官員と中国、韓国、朝鮮、ロシア、モンゴル、日本など6カ国の関係専門家たちと政府官員が参加したが、私は日本の唯一の代表として参加した。 しかし、私は日本人ではなく、また中国人だと言うと、それも語不成説だった。 国籍は中国や日本側を代表したから。 そこに私はまた朝鮮民族の血を持っているので、いずれかで話すのが難しいの状況だった。

韓国の属性 中国の属性そして日本の属性を兼ねた人間だったことに気付くようになった。 それを表現するアイデンティティ(アイデンティティ、自我认同)が私には「東北亜人(東北亜人)」が一番適していると思ったのだ。

私が日本に留学した後、経済学と経営学を専攻したが、研究テーマは「豆満江地域国際開発と北東アジア地域協力」だったので、私の生涯の研究課題と活動課題はいつも北東アジア地域であり、この地域の平和と発展がなければ私の人生 私はやりがいのある人生になることができ、そうでなければ私の人生の価値は実現できないと言う