李 鋼哲所長の回顧録(連載)⑥:第1部 60歳を青春とし、新しい30年への挑戦ー奇跡は奇跡的に起こらないー

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 第1話 奇跡的な人生の歩み―来日30年記念日所感―

2021年5月11日書き下ろし

今から30年前の5月11日、一人の青年が東京成田空港に着いた。中国北京での大学教員生活に終止符を打ち、日本留学のために渡日したのである。31歳の青年は、北京で有数の大学や大学院を卒業し、共産党エリート・コースを歩んでいたが、それを辞め、人生の先が全く読めない日本留学の道に踏み出したのである。唯一の望みは、自由な先進国で世界に向けて視野を広げ、新しい人生を開拓してみたい願望だけであった。

 私は、中国東北の田舎で生まれ育ち、高校を卒業したら、農村に戻り一人の農民になって4年間過酷な肉体的な農業労働をしていた。ところが、1978年に中国では大学受験制度を回復(「文化大革命」で受験制度が廃止されていた)、それに一つの望みを託して、農業労働の傍ら独学をはじめ、大学受験にチャレンジしたが、失敗に失敗を重ね3年連続受験しても受からなかった。

4年目の1981年に最後のチャンスと考え、地元の高校補講クラスに入り、半年間必死に勉強した結果、ついに優秀な成績(吉林省文科第3位)を取り、100対1以上の厳しい競争で勝ち抜け、奇跡的に首都北京の中央民族大学哲学科に合格し、新しい人生を歩んでいた。大学では2年生の時にリーダーとして共産党員になり、卒業後1985年には中国共産党北京市委員会党学校の大学院コースに入学、共産党研究をしながら政治家の道を目指していた。

卒業後は共産党中央機関で就職できるエリート・コースであって、明るい未来を夢見ていたが、政治の風雲により人生の道を切り替えることになる。

卒業半年前に尊敬して中国の未来の夢を託していた共産党総書記胡耀邦が失脚することで大きなショックを受け、政治家は危ない職業だと気づき、その夢を諦めた。そして大学教員の道を選び、中華全国総工会傘下の中国工運学院(労働組合幹部養成大学)で専任講師となった。

しかし、1989年6月に天安門事件が発生すると、これ以上中国にいても未来に希望が見えないと考え、日本留学を決め、安定した大学教員職をさりげなく辞め、91年5月の今日に来日した。日本という異国他郷に来て、歩んできた波瀾万丈の人生を振りかえりしたいと思って、PCの前に座った次第である。

 実は、来日して20年くらいになったとき(今から10年前)、故郷の黒竜江新聞社社長から、「李先生の歩んだ経歴を回顧録で書いてくれませんか」という要望があり、韓国語(朝鮮語)による回顧録を書き、20回連載したことがある。50代で回顧録書くことも可笑しなことと思われるかもしれない。それも人生盛りの途中で。

 日本に来て30年間、いろいろな苦労もしているし、体験もしているし、成功もしているし、失敗もしているが、ただの成功だというには説明しきれない出来事が多過ぎる。もっと的確に言えば「奇跡」を起こしていると思う、それもいろんな面で。

「奇跡」というのは、人間が常識的にはできないこと、あるいはあり得なかったことが起こることだと理解する。辞書では、「奇跡」とは常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象、と解釈している。

 え~?そんなことがあったのか?いったい何が起こったのか教えてくれる?

 はい、今からそれについて語りたい。

 31歳に裸一貫で来日して10年間、アルバイトをしながら勉強を続けた結果、五里霧中の中で人生の新しい道を見つけ出したのである。波乱万丈といえばその通りだが、紛れもない奇跡の連続であった。

 第1の奇跡は、想像もできなかった日本の民間政策シンクタンクの研究者になり、日本政府に向けての政策提言を行ったこと。北京では学問の道を離れる決意で、それまでに勉強してきた書籍は全部処分して来日した。日本で10年間彷徨いながら、一所懸命に勉強と学会活動および社会活動をする中で、環日本海総合研究機構(INAS)との縁ができて人生の道が開けたのである。この機構は日本海沿岸自治体出身の国会議員たちと学者・専門家たちにより設立された民間シンクタンクであった。

2001年4月から1年半、東京財団という政策シンクタンクの多額の助成金を受けて、研究員兼研究チーム事務局長になり、『北東アジア開発銀行の設立と日本の対外政策』という政策提言書をまとめ、内閣府の福田官房長官に直接面会(チーム代表と一緒)し、政策ブリーフィングをしたのである。時は2002年7月29日であった。

第2の奇跡は、日本政府(内閣府)の国策シンクタンクNIRA(2003年11月)の研究員・主任研究員に外国人としては初めて招聘され、日本政府に向けた政策提言をする仕事に従事した。

NIRAでの仕事は北東アジア関係の研究プロジェクトに関わり、日中韓3カ国の共同政策研究の橋渡し役を勤め、中国(国務院発展研究センター、国家発展改革委員会、社会科学院など)や韓国(対外経済政策研究院、大統領諮問東北アジア時代委員会、国土研究院など)をはじめとする東北アジアの各国の国策シンクタンクとのネットワークが構築できたこと。

 第3の奇跡は、2002年4月平壌訪問をきっかけに、朝日新聞の単独インタビューを受け、人生初めて新聞紙半面を飾る記事が掲載された。その前年に笹川平和財団の「朝鮮半島研究プロジェクト」チームに参加したことをきっかけに、4月15日の金日成誕生90周年の「太陽節」という国際的な大規模なイベントに招待され、日本と平壌との交流チャンネルを作る目的で訪問し、労働党機関とのパイプを作った。その後は同新聞ANNのコラムニストになり、後ほどは2006年金沢へ来てからは北陸中日新聞のコラムニストになったこと。

 第4の奇跡は、NIRAをベースに、2006年1月に「北東アジア研究交流ネットワーク」(NEASE-NET)という組織を立ち上げたが、日本の北東アジア関係の一流専門家と研究機関やシンクタンクをネットワーク化する企画を私が作成し、その代表幹事に谷口 誠(岩手県立大学学長・元日本駐国連全権大使・OECD事務次長)にご依頼し、私が事務局長を務め、日本有数な外交官との信頼関係を作り、韓国や中国を始めとする東北アジア諸国の関連団体とのネットワークを構築しながら活動してきた。

第5の奇跡は、日本や東北アジア諸国のトップ・レベルの政治家(多数の国会議員)・一流学者などに出会ったこと。とりわけ、日本・韓国・台湾の首相や大統領経験者多数と出会い、大臣レベルや大使レベルの方もたくさん出会うことができた。

村山富市元総理との出会い:

1998年8月、日朝国交正常化国民協議会が開催する研究会で村山富市元総理と出会った。村山元総理はこの会の会長であり、和田春樹東大名誉教授が事務局長を務めた。温井寛(環日本海総合研究機構(INAS)事務局長・元社会党『社会新報』編集長、社会党中央執行委員)先生との出会いで、INASの研究員という肩書をもち、環日本海研究と交流活動に参加する国会議員や一流学者との人的ネットワークが形成され、それが後ほどの2001-02年の東京財団での「北東アジア開発銀行の設立と日本の対外政策」プロジェクトとつながり、小泉首相宛ての政策提言を携えて福田官房長官に面会、政策提言を進呈することになった。

南徳佑韓国元総理との出会い:

1998年8月、米子で開催された北東アジア経済フォーラムに初めて参加したが、そこでは世界一流の学者や専門家が揃って、韓国の元総理南徳佑(ナンム トクウ)氏と出会い、後ほどはINAS(環日本海総合研究機構)の理事長インタビューに関わり、レポートをまとめた。

曽根康弘元総理との出会い:

2000年7月に渥美国際交流奨学財団の奨学生を中心としたシンポジウムを開催したが、中曽根康弘元総理および榊原英資元財務大臣を招待したので、直接交流することができた。

李登輝・元大統領との出会い:

2000年8月、台北で「東北アジア国際フォーラム」が日本の東アジア総合研究所(所長姜英之)と台湾中央研究院共催で開催されたが、私は会議準備の事務局長を担当していた。会議の翌日は日本から参加した金森久雄・日経センター顧問をはじめとする30名くらいの有識者と一緒に、李登輝・元大統領の事務所を訪問し約2時間の歓談を行ったことが印象に深く残っている。

フレルバータル・モンゴル駐日大使との出会い:

上記の会議にはモンゴル駐日大使と公使が参加したが、私が事務局長として空港に出迎えに行ったことをきっかけに、その後は親交が続き、私の要請に答えて2020年10月にINAF研究所の最高顧問として協力をいただき、23年9月19日に逝去する前までに最高顧問を務めてくれた。

宮澤 喜一元総理との出会い:

2001年7月、渥美国際交流奨学財団(鹿島建設元会長渥美清の遺族が設立した奨学財団で私は1999年度の奨学生であり、今現在まで財団の執行委員として様々な国際交流活動を行っている)が毎年開催している軽井沢での国際交流イベントと研究会に、当時軽井沢で休養していた宮崎儀一元総理を現地でお招きし、「宮沢構想」と「新宮沢構想」について研究交流会が設けられ私も直接宮沢総理と質疑応答することができた。

福田康弘長官(後ほど総理大臣)との出会い:

2002年7月29日、東京財団の政策研究成果をもとに政策提言書(『北東アジア開発銀行の設立と日本の対外政策の在り方』について)を作成し、小泉純一郎首相宛てに政策提言を進呈するために、チームの代表とともに内閣府福田康弘官房長官(後ほど総理大臣)にアポを取った上で直接面会し、ブリーフィングした。外国人として内閣府で政策提言することができたのである。

金 泳鎬(キム ヨンホ)元韓国産業資源部長官との出会い:

東京財団での「東北アジア開発銀行の設立と日本の対外政策」研究の成果をもとに、2003年2月に26日に韓国ソウルで開催された「東北アジア国際シンポジウム」に金先生から平川均先生を通じて招待され会議で報告した。廬武鉉氏の大統領当選をきっかけに、盧氏が大統領に当選されたら「東北アジア開発銀行」設立を推進したいとの選挙公約があったので、そのシンポジウムが開催されたそうだ。会議の後は『ハンキョレ新聞』社の要請で金先生と中国遼寧大学の秦教授と3者鼎談を行い、新聞に「東北アジア開発事業にお金の使い道が多い」という題の大きな記事が掲載された。

金大中前大統領との出会い:

2005年5月23日に韓国の金大中前大統領は、東京大学で開催された「朝鮮半島の共存と東北アジア地域協力」を題にした国際シンポジウムで基調講演をした。当時東大で教授をしていた李愛リア先生のご招待で参加した。李愛リア教授を通じて「金大中」ロゴが入った腕時計をお土産でいただき、貴重に保存している。日本での朝鮮族研究交流活動での貢献を理由に頂いた。

2016年11月にはNEASE-NET(北東アジア研究交流ネットワーク:私が初代事務局長)の第12回国際シンポジウム(青山学院大学)で鳩山一郎元総理が挨拶に来られ、交流する機会に恵まれた。

このような経験は外国出身の留学生で来日したものとして、常識では考えられない奇跡の連続であると思う。

 第6の奇跡は、渥美国際交流財団の奨学生(1999年)になったおかげで、20数年間世界から日本に留学して博士を卒業したエリート30数か国約300人余りの人々との人的ネットワークができ、世界中に友人がいるということ。財団が主催する「アジア未来会議」(AFC)やその他のフォーラム、セミナーなどで常に交流できる仲間達である。

 第7の奇跡は、在日本中国出身の朝鮮族諸団体を束ねて、1999年から十数年かけて研究交流活動や国際シンポジウムを組織し、その結果、朝日新聞2009年2月13日には1面に「朝鮮族、アジアを結びたい」というテーマの記事が掲載されたこと。そのような活動を経てネットワークを構築し、さらに中国や韓国にいる朝鮮族エリート学者など結び付けて朝鮮族国際ネットワークを作ったこと。

 第8の奇跡は、学術交流として世界の30カ国くらい訪問交流したこと。その中でも2005年12月には国連UNDPとUNIDOが主催したオーストリアのウインでの豆満江開発に関するワークショップに招待され参加し、人生初めて英語(私にとっては2年間の英語勉強履歴しかなく、第4言語である)でプレゼンテーションしたこと。また、2013年8月には国連ESCAPが主催するロシアのウラジオストックで開催された東北アジア地域協力に関する専門家会議に招待されて、英語でスピーチしたこと。

 第9の奇跡は、50歳でゴルフをはじめ、健康のための最高レベルの運動に身を投じたこと。そして、病弱だった身体に還暦を超えた年齢で健康の最盛期を迎えることができ、そのエネルギーで還暦を迎えた年に下記のフラット・フォームの構築に取り組んだこと。

 第10の奇跡は、日本の東北アジア諸国出身の学者や専門家・外交官出身たちのご協力を得て、2020年10月に一般社団法人・東北亞未来構想研究所を立ち上げ、今後30年間を射程に人生目標を決めたこと。専門家のフラット・フォームとして国内外で研究や交流活動を行っていること。

 以上、私は中国吉林省の延辺朝鮮族自治州の田舎のものから、波乱万丈の人生を経験し、日本に来て30年間で奇跡的な人生を歩んできた。

新しい30年に向けた挑戦

2020年10月、還甲年齢を控えて東北アジア各国出身の研究者と専門家を招聘して社団法人東北アミラ構想研究所を設立した。 これも想像もできなかった奇跡だ。 2021年3月27日に金沢市で設立総会を開催したが、全国防防曲で30人余りが参加し、日本人、中国人、韓国人、モンゴル人、ロシア人、朝鮮人(北朝鮮)、朝鮮族と在日韓国人など専門家や全国会議員活動家たちが 一席に集まった。

30年間、北東アジアの平和と発展のために活動してきた経歴と経験、そして貴重な人的関係を活用し、新しい未来を目指す各種研究や国際族交流活動を展開するためのプラットフォームを以前から構想してきたのだ。

中国で成長してきた30年と日本で成長してきた30年をもとに、未来の30年をどのように構想し創造するのか。 について考えた結果である。 日本の地で日本人知性人たちと外国人を一つの組織にまとめて活動するというのも「奇跡」といえる。

「人生百世時代」という言葉が近年には多くの世論を通じて広がっている。 日本政府総務省の予測によると、2000年度以降に生まれた人々の寿命は50%以上に100歳を超えるという。

私も100歳を念頭に置いて研究所を設立した後、最近YouTubeで延世大学の全教授であるキム・ヒョンソク(現在104歳)哲学者の先生の話を聞くことになったので、 修正しました。

もちろん人生はいつ締め切るのかどれも知らないのだ。 しかし現実と未来を予測してみればある程度推測はできるだろう。

私も大学で哲学専攻をした経験があるので、将来は人生哲学に関する講義ができると考え、もう一度哲学勉強を始めることになった。

 INAF研究所設立総会(2021年 3月 27日、金沢で) 研究所の理事・顧問、右から5番目が筆者)

【職業と天職】

今年の夏に上のタイトルでコラムを書いて母誌に載せた。 韓国の一作家のコラムでヒントを受けた。

人間の職業には3つがあるという。 一つは「ジョブ」という職業であり、生存のための仕事だ。 二つ目は「キャリア(Career)」という職業であり、会社や社会で自分の才能を十分に発揮できる仕事だ。

三つ目は「天職(Calling)」という職業なのに日本に来て「教師は職業か天職か?」という相談があったことが記憶に生々しい。

Callingという用語が慣れていないので、事前に探してみた。 事前には「召し、天職、神の召し、欲求、性向」などと解釈されていた。 最近流行するチャットGPTで検索してみると、「天職あるいはコリングという個人が自分の人生や仕事に対して本質的な目的や使命感を持つようになるもの」と解釈した。

孔子は「50に千人をするようになった」という名言を残したが、私も50歳になると千人を知るようになったようだ。 僕にの千人とは、自分がこの世に生まれた生きる鳥居と使命を知るようになるのではないかと思う。

残りの人生は天職を持って世界のために生きなければならないのではないか。