李 鋼哲所長の自叙伝連載➂:人生の道は曲折で波乱万丈

「十人十色」という諺があるように、人生も一人一人自分の道があり自分の経験がある。

しかし、人間は一人で生きるものではなく、いろんな形で繋がっており、お互いに影響しあい、お互いに学びあうのである。自分の人生のストーリを語ると誰かがそれを勉強し、自分の人生の鏡にすることができる。人間は順当に人生を送る人もいるが、大勢の人の人生は曲折と波乱万丈に満ちている。それを知ることにより、そこから感動を覚えたり、感激に満ちることができ、自分の人生価値を高めたり、人生を豊かにすることあできる。

私の人生ストーリが読者たちに少しでも役立てることができることを願う。

私は旧満州の中国吉林省延辺という朝鮮民族が暮らすところで生まれた。「大躍進」運動のさなかの1958年12月(旧暦)に、全中国が食糧難で飢饉に見舞われる中で生まれたが、食糧難で家族はお粥もまともに食べられず、栄養不良の中で育った。母親は病気の身体で12人目の私を出産し、そのまま入院生活を送っていたので、私は母乳もなく、米粒を探すのも難しいお粥で何とか命は続いたもの、深刻な栄養不良でポリオ(小児麻痺の伝染病)を患い、貧困の中で治療もできず、右足に障碍(ポリオ後遺症)を残したまま、強い生命力で生き残り、今現在まで生きてきている。

1960年筆者が1歳時の家族写真(両親と7人兄弟、お母さんに抱かれているのが筆者)。貧しい家庭だったが、なぜか私には海軍帽子と服を着せている。

極度の苦難の中ではあったが、小学校から高校まで不完全ではあるが(当時は毛沢東の学生を短縮する方針のため、9年間=小学校5年、中学校2年、高校2年)で高校を卒業した。 1977年6月には農村(生産隊という集団農業)に戻り、農業労働に従事した。3歳上の兄が1978年3月に吉林大学日本語学部に入学した後、私に手紙を送って聞きて「君も大学試験やってみたらどうか?」とアドバイスをしてくれたので、その年6月から大学受験にチャレンジ、しかし失敗に失敗を重ねながら、4年間(全国統一試験であるため1年に1回しかチャンスがない)入試に挑んだ結果、1981年9月に首都北京の中央民族大学政治学部哲学科に入学することができた。私にとっては夢にも思わなかった奇跡であった。

大学卒業後は、北京市共産党委員会の北京市委党校で大学院生を募集したので、その試験に合格し(大学2年生で共産党党員になり学生リーダーとして活躍)、そこで「共産党研究」専攻を履修し、共産党のエリートとしての養成を受けた。将来は政治家を目指していた。

ところが、当時の中国での政治的風雲の悲惨さを目の当たりにした。1987年1月に胡耀邦共産党総書記が失脚したのを受け、政治家のリスクを悟り、政治家の夢を諦め、北京の全国労働組合総会(全国総工会)傘下の中国工運学院という大学で専任講師として勤めた。

その2年後、1989年6月には天安門事件を目の当たりにした。胡耀邦総書記がなくなった4月から2カ月近く北京と全国で学生・市民デモが起き、筆者も若手インテリ―として学生たちと一緒に何度もデモに参加したが、政府と軍の武力鎮圧したことを見て、祖国の未来に失望を覚え、人生を彷徨う中で、兄が日本に移住し、東京にある日本語学校の入学手続きをしてくれたので、大学の専任講師の職をさりげなく辞め、日本留学の道を選ぶことにした。

1991年5月、人生初めの海外体験として北京空港から成田空港に向かって旅立った。当時中国での給料は日本の100分の1くらいしか価値が引きく、お金もないまま裸一貫で日本の地を踏んだ。そして、生計と学費を稼ぐために一所懸命にアルバイトしながら独学し、後ほどは立教大学大学院の経済学研究科修士課程に入学、博士課程まで勉強しても日本で就職することはほぼ不可能だったので、まさに五里霧中の人生の道を彷徨っていた。

研究活動の中、たまたま人生の出会いで、生存の道が開かれた。大学院では東北アジア(環日本海)経済圏の構築に関する研究をしていたので、1996年8月中国長春で開催される「東北アジア経済協力国際会議」に学生の身分で参加し、そこで出会ったのが環日本海総合研究機構(INAS、環日本海超党派議員フォーラムと国内有数な研究者たちにより設立されて一般シンクタンク、東京)の事務局長温井寛先生だった。

私にとっては運命的な出会いであった。そこで政策研究プロジェクトとして「北東アジア開発銀行」の創設に関するフィージビリティ研究」というテーマで、2001年に東京財団(笹川財団の子財団で政策研究をする財団)に助成金を申請したが、見事に通って、たまたま運よく研究プロジェクトのコーディネートとして、財団の研究員になった。そこで1年半の調査研究を実施し、その成果として日本国政府小泉純一郎首相宛に政策提言を行う機会に恵まれた。02年7月29日に、当時内閣府官房長官であった福田康弘官房長官にアポを取り、研究チームのリーダーとともに内閣府に入り、直接政策ブリーフィングを行うという、私にとっては想像もできなかったまた一つの奇跡が起こった。

その成果が後ほどの人生の道を開くのに大きく役たち、2003年4月には名古屋大学経済学部の平川均教授が私を外国人招聘研究員として半年間、国際経済動態研究所で自由に研究する機会を提供してくれた。

そのころ03年夏に、日本政府内閣府傘下の総合研究開発機構(NIRA)で初めて若手研究員を公募していたので、それに応募したが、東京財団での政策研究成果が評価され、見事に合格し、11月から3年間NIRAの研究員・主任研究員を務め、東北アジア地域協力に関する日中韓3ヵ国の国策シンクタンクによる共同政策研究に従事することができた。3カ国語を自由に駆使できるという自分の強みを生かすことができ、東北アジアおよび世界を檜の舞台として行き来しながら研究生活を送ってきた。この時期は私の人生にとって最も輝く、黄金の時期であった。

3年間契約期間が終了し、2006年11月より金沢にある北陸大学の教授に転身。それも不思議な縁で、2000年8月に台北で開催された「北東アジア地域協力に関する国際シンポジウム」に参加した時に、北陸大学の北元喜朗理事長(当時)に出会って、彼に気に入られ、誘われて北陸大学にスカウトされるようになった。

 自分の人生を総括するときに、私は何時もこう考えている。

自分は生まれるときから不運児である。未熟児として生まれ、飢餓の中で育ち、成人するまで不遇のために、生きていく自信がなく、大きな夢も見ることができなく生きてきた。

昔、田舎でリンゴ梨(リンゴと梨を接ぎ木してできた果物、故郷延辺の名物)を収穫して市場で売るためには、選別が必要であり、1等から3等まで選別していたが、その中の3等品のリンゴ梨がなんと私の人生と同じ運命のような気がした。そして3等品は3つの欠陥を持っているものだとたとえることができる。

成人になってから自分の人生を振り返ると、いつも自分との戦いで、その3つの欠陥を補うための過程であったと思われる。つまり3つのハンディを持っており、そのハンディを補いために戦った人生だと思われる。それではどんなハンディなのか?

まず、一つ目の欠陥は身体のもの。大躍進時代に生まれた私は、貧困と飢餓の中で生まれてから栄養不良でポリオを患っていたので障碍者であり、神様は私に他人と平等な人生の機会を与えてくれなかった。そうなったら、人間の本能として、他の機能を開発し、足りないところを補うしかない。

そこで、「身体の欠陥」を補うためには、意識的にも無意識的にも他人と同じ行動をとるように頑張るしかない。

障害の足を引きずりながら、小学校に入学してからは熱心に勉強することは言うまでもなく、課外活動にも抜けることがなく熱心に参加した。学校で肉体労働(農業を勉強するための農作業)などもあったが、他人に遅れまいと一所懸命にかかわった。そして、恥だとは考えずに、仲間と一緒にサッカーやバレーボールやその他の運動に参加した。大学に入っては障害の足を引きずりながら、マラトンまで走ったこともあった。

それを通じて、強い意力を育むことができたし、運動をしたために、足の状態は悪化することはなかった。この種の病気は運動しなければ足の筋肉が委縮しがちだという。

二つ目の欠陥は、知識の欠乏。私が小学校に入る1966年からは、中国では文化大革命が起こり、学校教育にも大きな影響を与えていた。権力者の毛沢東の教育方針は、「学制を短縮すべし、教育は革命をすべし」だったので、それまでに12年あった学校の正規教育制度は破壊されていた。

この「文革」が10年間続き、国内では階級闘争が第一で、経済活動が疎かにされたため、中国経済は10年間ほとんど成長せず、逆に生産力が著しく破壊されていた。1976年9月に毛沢東がなくなると、「文革」も終息し、78年には鄧小平が権力を握ると「経済建設」を優先する路線を打ち出した。いわゆる「改革・開放」政策である。

10年間続いた「文革」大動乱の影響で、教育制度が破壊され、大学受験制度もこの10年間はストップされていた。教育内容も学生は労働者、農民に勉強すべきだとの方針で、12年勉強すべき教育内容を9年間(小学校5年間、中学校2年間、高校2年間)履修することになり、学校では講義は疎かにされ、農業労働や工場労働をするのが一般的になっていた。都会では学校卒業した若者を農村に「下放」(農村地域に集団で送り出し、農民の体験をさせること、結局は都市部の失業対策であった)させていた。

農村出身の若者は、卒業したらそのまま全員農村に戻り、農業生産に従事することしかできなかった。自分もその流れに沿って、農村の「生産隊」(村であるが、軍隊編成のように「生産隊」と呼んで、いくつ村が一つの「生産大隊」になり、その上には「人民公社」という地方政府組織があった)に戻り、農業生産の労働を余儀なくさせられた。身体の欠陥を持つ上、「知識の欠陥」ももったまま、田舎の農民に転身したのである。

農村での厳しい肉体労働の中で、「身体の欠陥」者の私は、このままの人生に未来の希望を見いだせず、悩んでいたところ、1978年に独学で吉林大学日本語学部に入学した兄から手紙が来て、「君も大学受験してみたらどうか?」との言葉に心を動かされ、一つの希望を見出そうとした。

しかし、大学受験をすることは、「知識の欠陥」を持つ私にとっては、そんなに簡単なことではなかった。当時、農村部ではほとんど大学受験に合格する人が少なく、私が所属する生産大隊(約300世帯)では、数年に1人の合格者が出るくらいなので(農村での受験者の合格率がおおよそ1千分の1~1万分の1程度だった。

それでも、人生を変えるにはこの道しか残っていなかったと自覚し、働きながら独学し、4年間大学入試にチャレンジした結果、全県の首席で北京の「中央民族大学」哲学科の大学生になった。そのプロセスは後ほど詳述する。涙が出るストーリがあるのだ。

3つ目の欠陥は、心理的欠陥。田舎の貧しい生活、身体の欠陥、それに知識の欠陥を持っているため、人生に自信を持っていなかった。田舎にいれば、まず、結婚もできないだろう、と思った。

ただし、我が兄弟姉妹は8人もいるが、もっと貧しい1950年代に長女のお姉さんが大学に入れたので、それがモデルになっているのだろうか、兄弟は次々と劣悪な農村環境を離れ、大学に行ったり、軍隊に行ったりしていた。お母さんは、村人たちに、「うちの息子を清華大学に送りたい」と話したらしく、その大学がどんな大学かも知らないながら、友達に「清華大学」という綽名をつけられて揶揄われるようになった覚えがある。つまり、それは夢の夢で妄想するとの意味で言われたので恥ずかしささえ覚えた。

身体の欠陥があり、身体が弱いのでしょっちゅう仲間に虐められていたので、心理的な病の抱えることになった。

21歳で大学生になり、大学のクラスではリーダーになっていたので、その後長い時間をかけて、その心理的な欠陥、自信のなさは徐々に克服されてきた。

前述の「世界に一つだけの花」と自覚する自分に、作文するときは「タンポポの花」(朝鮮語では「ミンドルレ」)という綽名をつけているのである。道端で人々の足に踏まれても、強く生き延びて、綺麗な花を咲かせて、人々に喜びを運んでくれる、その運命が自分に似ていると思ったからである。