2011年9月16日、北京労働者体育館で日本の人気アイドルSMAPグループが初めて公演を行った。そこで最初に歌ったのが「世界に一つだけの花」という歌だった。特別な歌ではないが私の心を掴む歌であった。テレビで北京での公演を鑑賞しながら、10年くらい前のことを思い出した。
日本の友人であり、東京財団で一緒に研究プロジェクトに参加していた中野有(なかのたもつ)氏、元国連で仕事をしていた経験を持つ方がいる。彼は2002年に米国のワシントンにあるブルキング研究所(Brookings Institute、有数の米国シンクタンク)の招聘研究員として赴任することになった。日本を離れる前に、彼は仲間たち20名程度招待して歓送パーティーを開いたが、その時に参加した一人がこの歌を歌っていた。中野氏は、「この歌はとっても素晴らしい歌なので、国連の歌として推薦したい」と話していたことが記憶に残っていた。
中野氏は、大学卒業後に国連のUNIDO(国連工業開発機構、本部はオーストリアのウイン)という組織で就職し、10年あまり中東やアフリカで仕事をした経験の持ち主であった。彼は国連の経験があったので、このような発想ができたのだと思った。その前の2001年の11月には中野氏と私は東京財団の研究調査で、ワシントンとニューヨークに赴き、国連本部で担当幹部のインタビューをしたこともある。その当時の私としては、田舎のものとして浅薄な知識では、この歌の内容をよく理解できていなかった。
ところで、10年経って同じ歌を聞くと、心に何か響くことを感じた。この歌の歌詞は次の通りである。
[世界に一つだけの花]
(作詞/作曲:槇原敬之)
花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる
※そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
困ったように笑いながら
ずっと迷ってる人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔
名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように
(※くり返し)
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one
歌曲のURL:
私がこの歌に感銘を受けたのは、ほかの人々と共通の理由もあるだろうが、私なりの独特な理由もあった。
私の人生の道のりと、現在の人生で追及している人生の価値観に関する思いが、この歌に含まれているような気がした。人間のあるべき価値観と私自身の価値観をこの歌を通じて感じ取れるようになったのではなかろうか。
私の人生を振り返ってみると、まず、私は人生で誰と競争しようと思ったことがほとんどなく、そして、実際に競争する意識を持ったこともない。
私の少年と青年時期は中国で文化大革命の時期と重なっており、その時代の学校教育ではまず受験勉強というのは皆無であった。後ほど農村に戻って働く時も競争する環境などなかった。コツコツ自分ができることをやるのみであった。
大学に行こうと受験を4年かもしたが、自分の実力勝負だと思ったことはあってもだれと競争して勝つとか、という意識は全く持っていなかった。農村で大学受験して入学することは、当時の環境では万分の1の確率であり、たゆまず頑張って成功したら運が良いと思っただけなのである。
大学院試験に参加してもライバルになる人は周りにはいなかった。運よく合格すれば入学できたのである。その後、就職するなり、日本に留学して勉強するなり、すべては自分との戦いであった。
もちろん、周りの人々は「李鋼哲は競争相手」だと考えた人がいたかも知れないし、実際に誰かにそのように言われたことはある。しかし、私自身はそのような意識を持っていなかった。今でも同じである。
今考えると、私は誰と競争する必要もなく、私なりに独特な存在であることに気づき始めており、誰とも比較できない、そして比較する必要がない、極普通ではあるが、また何か違う「世界に一つだけの花」だと思えるようになった。
以下の私の人生ストーリで、読者はそれを読み取れると思う。
まずは下記の文章をお読みになってもらいたい。
来日30年記念日所感(2021.5.11作成)
今から30年前の5月11日、一人の青年が東京成田空港に着いた。中国北京での大学教員生活に終止符を打ち、日本留学のために渡日したのである。31歳の青年は、北京で有数の大学や大学院を卒業し、共産党エリート・コースを歩んでいたが、それを辞め、人生の先が全く読めない日本留学の道に踏み出したのである。唯一の望みは、自由な先進国で世界に向けて視野を広げ、新しい人生を開拓してみたい願望だけであった。
私は、中国東北の田舎で生まれ育ち、高校を卒業したら、農村に戻り一人の農民になって4年間過酷な肉体的な農業労働をしていた。ところが、1978年に中国では大学受験制度を回復(「文化大革命」で受験制度が廃止されていた)、それに一つの望みを託して、農業労働の傍ら独学をはじめ、大学受験にチャレンジしたが、失敗に失敗を重ね3年連続受験しても受からなかった。
4年目の1981年に最後のチャンスと考え、地元の高校補講クラスに入り、半年間必死に勉強した結果、ついに優秀な成績(吉林省文科第3位)を取り、100対1以上の厳しい競争で勝ち抜け、奇跡的に首都北京の中央民族大学哲学科に合格し、新しい人生を歩んでいた。大学では2年生の時にリーダーとして共産党員になり、卒業後1985年には中国共産党北京市委員会党学校の大学院コースに入学、共産党研究をしながら政治家の道を目指していた。
卒業後は共産党中央機関で就職できるエリート・コースであって、明るい未来を夢見ていたが、政治の風雲により人生の道を切り替えることになる。
卒業半年前に尊敬して中国の未来の夢を託していた共産党総書記胡耀邦が失脚することで大きなショックを受け、政治家は危ない職業だと気づき、その夢を諦めた。そして大学教員の道を選び、中華全国総工会傘下の中国工運学院(労働組合幹部養成大学)で専任講師となった。
しかし、1989年6月に天安門事件が発生すると、これ以上中国にいても未来に希望が見えないと考え、日本留学を決め、安定した大学教員職をさりげなく辞め、91年5月の今日に来日した。日本という異国他郷に来て、歩んできた波瀾万丈の人生を振りかえりしたいと思って、PCの前に座った次第である。
実は、来日して20年くらいになったとき(今から10年前)、故郷の黒竜江新聞社社長から、「李先生の歩んだ経歴を回顧録で書いてくれませんか」という要望があり、韓国語(朝鮮語)による回顧録を書き、20回連載したことがある。50代で回顧録書くことも可笑しなことと思われるかもしれない。それも人生盛りの途中で。
日本に来て30年間、いろいろな苦労もしているし、体験もしているし、成功もしているし、失敗もしているが、ただの成功だというには説明しきれない出来事が多過ぎる。もっと的確に言えば「奇跡」を起こしていると思う、それもいろんな面で。
「奇跡」というのは、人間が常識的にはできないこと、あるいはあり得なかったことが起こることだと理解する。辞書では、「奇跡」とは常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象、と解釈している。
え~?そんなことがあったのか?いったい何が起こったのか教えてくれる?
はい、今からそれについて語りたい。
31歳に裸一貫で来日して10年間、アルバイトをしながら勉強を続けた結果、五里霧中の中で人生の新しい道を見つけ出したのである。波乱万丈といえばその通りだが、紛れもない奇跡の連続であった。
第1の奇跡は、想像もできなかった日本の民間政策シンクタンクの研究者になり、日本政府に向けての政策提言を行ったこと。北京では学問の道を離れる決意で、それまでに勉強してきた書籍は全部処分して来日した。日本で10年間彷徨いながら、一所懸命に勉強と学会活動および社会活動をする中で、環日本海総合研究機構(INAS)との縁ができて人生の道が開けたのである。この機構は日本海沿岸自治体出身の国会議員たちと学者・専門家たちにより設立された民間シンクタンクであった。
2001年4月から1年半、東京財団という政策シンクタンクの多額の助成金を受けて、研究員兼研究チーム事務局長になり、『北東アジア開発銀行の設立と日本の対外政策』という政策提言書をまとめ、内閣府の福田官房長官に直接面会(チーム代表と一緒)し、政策ブリーフィングをしたのである。時は2002年7月29日であった。
第2の奇跡は、日本政府(内閣府)の国策シンクタンクNIRA(2003年11月)の研究員・主任研究員に外国人としては初めて招聘され、日本政府に向けた政策提言をする仕事に従事した。
NIRAでの仕事は北東アジア関係の研究プロジェクトに関わり、日中韓3カ国の共同政策研究の橋渡し役を勤め、中国(国務院発展研究センター、国家発展改革委員会、社会科学院など)や韓国(対外経済政策研究院、大統領諮問東北アジア時代委員会、国土研究院など)をはじめとする東北アジアの各国の国策シンクタンクとのネットワークが構築できたこと。
第3の奇跡は、2002年4月平壌訪問をきっかけに、朝日新聞の単独インタビューを受け、人生初めて新聞紙半面を飾る記事が掲載された。その前年に笹川平和財団の「朝鮮半島研究プロジェクト」チームに参加したことをきっかけに、4月15日の金日成誕生90周年の「太陽節」という国際的な大規模なイベントに招待され、日本と平壌との交流チャンネルを作る目的で訪問し、労働党機関とのパイプを作った。その後は同新聞ANNのコラムニストになり、後ほどは2006年金沢へ来てからは北陸中日新聞のコラムニストになったこと。
第4の奇跡は、NIRAをベースに、2006年1月に「北東アジア研究交流ネットワーク」(NEASE-NET)という組織を立ち上げたが、日本の北東アジア関係の一流専門家と研究機関やシンクタンクをネットワーク化する企画を私が作成し、その代表幹事に谷口 誠(岩手県立大学学長・元日本駐国連全権大使・OECD事務次長)にご依頼し、私が事務局長を務め、日本有数な外交官との信頼関係を作り、韓国や中国を始めとする東北アジア諸国の関連団体とのネットワークを構築しながら活動してきた。
第5の奇跡は、日本や外国のトップ・レベルの政治家(多数の国会議員)・一流学者などに出会ったこと。とりわけ、日本や韓国の首相経験者6人との出会いのチャンスに恵まれたこと。
1998年夏には、日朝国交正常化国民協議会が開催する研究会で村山富市元総理と出会った。
1998年8月、米子で開催された北東アジア経済フォーラムに初めて参加したが、そこでは世界一流の学者や専門家が揃って、韓国の元総理南徳佑(ナンムトクウ)氏と出会い、後ほどはINAS(環日本海総合研究機構)の理事長インタビューに関わり、レポートをまとめた。
2000年に渥美国際交流奨学財団(1999年に同財団の奨学生)のシンポジウムに参加するきっかけで、中曽根康弘元総理および榊原英資元財務大臣と出会った。
2001年7月、渥美国際交流奨学財団が毎年主催している軽井沢イベントと研究会には宮崎儀一元総理を現地でお招きし、「宮沢構想」と「新宮沢構想」についてお話を伺うことができた
2002年7月29日、小泉純一郎首相に政策提言を進呈するために内閣府に入り、福田康弘官房長官(後ほど総理大臣)と直接面会し、東京財団の政策研究についてブリーフィングした。
2016年11月にはNEASE-NET国際シンポジウム(青山学院大学)で鳩山一郎元総理が挨拶、目の前で彼の挨拶をスマホで録画までした。
このような経験は外国出身の留学生で来日したものとして、常識では考えられないのではないだろうか?
第6の奇跡は、渥美国際交流財団の奨学生(1999年)になったおかげで、20数年間世界から日本に留学して博士を卒業したエリート30数か国約300人余りの人々との人的ネットワークができ、世界中に友人がいるということ。財団が主催する「アジア未来会議」(AFC)やその他のフォーラム、セミナーなどで常に交流できる仲間達である。
第7の奇跡は、在日本中国出身の朝鮮族諸団体を束ねて、1999年から十数年かけて研究交流活動や国際シンポジウムを組織し、その結果、朝日新聞2009年2月13日には1面に「朝鮮族、アジアを結びたい」というテーマの記事が掲載されたこと。そのような活動を経てネットワークを構築し、さらに中国や韓国にいる朝鮮族エリート学者など結び付けて朝鮮族国際ネットワークを作ったこと。
第8の奇跡は、学術交流として世界の30カ国くらい訪問交流したこと。その中でも2005年12月には国連UNDPとUNIDOが主催したオーストリアのウインでの豆満江開発に関するワークショップに招待され参加し、人生初めて英語(私にとっては2年間の英語勉強履歴しかなく、第4言語である)でプレゼンテーションしたこと。また、2013年8月には国連ESCAPが主催するロシアのウラジオストックで開催された東北アジア地域協力に関する専門家会議に招待されて、英語でスピーチしたこと。
第9の奇跡は、50歳でゴルフをはじめ、健康のための最高レベルの運動に身を投じたこと。そして、病弱だった身体に還暦を超えた年齢で健康の最盛期を迎えることができ、そのエネルギーで還暦を迎えた年に下記のフラット・フォームの構築に取り組んだこと。
第10の奇跡は、日本の東北アジア諸国出身の学者や専門家・外交官出身たちのご協力を得て、2020年10月に一般社団法人・東北亞未来構想研究所を立ち上げ、今後30年間を射程に人生目標を決めたこと。専門家のフラット・フォームとして国内外で研究や交流活動を行っていること。
以上、簡単にまとめてみて、今後の人生に励みになることの念願する次第である。大したことはしていないが、30年間の努力で人生で掛け替えのない貴重な経験を積み上げており、今後の30年人生を歩む上で重要な礎となるだろう。